安久津八幡宮・熊野大社ー山形県置賜

歴史の謎
高畠町 安久津八幡宮
南陽市 熊野大社

芭蕉が「最上川はみちのくより出でて」と表現した最上川源流は、吾妻火山に端を発する。
山形県の最南部を占める置賜地域は、置賜盆地を中心に周りには山が連なる。
西に朝日連峰。
南に飯豊連峰・吾妻連峰。
東に奥羽山脈。
北に出羽丘陵が位置する。
置賜盆地には、伊達・上杉氏と関わる米沢市、南陽市などの自治体があって、
まほろばの里として知られる。

置賜地域は、古代から仏教信仰の地として悠久の歴史を重ねてきている。

陸奥国の優嗜曇郡うきたむぐん城養きこう蝦夷えみしおのこである麻呂と鐵折かなおり鬢髪ひげかみを剃りて沙門と為らんともう

『日本書紀』持統天皇三年(689)正月三日の条

陸奥国の置賜郡の城養(大和朝廷の支配下にあり、城柵内で生活している現地民)の蝦夷であるおのこ(子供)の麻呂と鉄折かなおりが、大和朝廷に出家を乞い願って許されたという東北への仏教の普及を示す最古の記事である。
すでに、7世紀には山形にも仏教に関わる人がいたのだ。

大化改新後、7世紀後半には、すでに置賜郡が設置されていた。

「陸奥国最上・置賜を割いて出羽国に隷属せしむ」

続日本記


出羽国が設置されたのは和銅五年(712)である。
出羽国に編入する以前の奈良律令期から、置賜郡はすでに設置されていた。しかも郡内には仏教信仰が伝播してきており、在地民が朝廷に対して、仏教帰依の願いを出すような精神的教化も行われていたのである。
では、その城柵はどこにあったのか

置賜盆地の北部、奥羽山脈の西麓に高畠町がある。
町の北寄りの小(古)郡山という場所には安久津八幡宮がある。
安久津八幡宮は、貞観二年(860)に円仁(慈覚大師)が豪族の安久津磐三郎の協力で、阿弥陀堂を建てたのが始まりとされる。
参道の左手に流麗な三重塔、参道途中に舞楽殿があり、その奥に本殿がある。
寛政九年(1797)年に再建された三重塔は、高さ17m、銅板茅葺き屋根で、置賜地域唯一の層塔である。

また、南陽市宮内には、日本三熊野として知られる熊野大社がある。
社殿によると、大同元年(806)に、朝廷の統治が行き届かないこの地方に、平城天皇が中央の崇敬篤い「紀州・熊野権現」を勧請して再興したという。
その後、清和天皇の命により、東北の地を訪れた円仁が、貞観六年(864)、御本尊として阿弥陀・薬師・観音の三像と「大黒像」を納めたという。
現在でも境内には舞楽殿や舞楽面が残されており、毎年7月24日の夜祭・25日の例大祭には、舞楽が奉奏されている。
また、今なお神仏混合の姿が色濃く残っている。

置賜は、隣県の宮城県と新潟県、福島県と繋がる交通の重要な拠点である。
下の地図を見ると、安久津八幡と熊野大社は交通の要衝に位置しているのがわかる。

地図をよく見ると、
安久津八幡宮の近くには「(古)郡山こおりやま
熊野大社の近くには「郡山」という地名が見える。
郡山という地名は、政務を執った役所「郡衙ぐんが」があった場所から由来する。
出羽三山へ、越後へ、陸奥へと向かう者
律令時代には、そこに大和朝廷の政府機関もあって
安久津八幡宮と熊野大社は、物と人が行き交い賑わう毎日であった事だろう。

又、安久津八幡宮と熊野大社は、円仁、舞楽と深く関わっており、天台信仰の拠点でもあった。
もしかすると、安久津八幡宮や熊野大社の場所こそが
城養の蝦夷が生活したり、朝廷へ仏道入門を願い出た場所であったのかもしれない。

安久津八幡宮

安久津八幡宮は、貞観二年(860)に円仁(慈覚大師)が豪族の安久津磐三郎の協力で、阿弥陀堂を建てたのが始まりとされる。
その後、前九年の役の際、源義家が安倍一族を平らげ、鎌倉の鶴岡八番宮をこの地に勧請したとされているが定かではない。
当時盛んに行われた神仏習合の考えから、阿弥陀信仰が八幡信仰に変わっていったとも考えられる。
かつて、広大な境内には、別当神宮寺、学頭金蔵院、衆徒頭千珠院をはじめとした十二坊を置いたのと、神官社家三十余人を配して神仏両部の祭典儀式が定められていた。
鎌倉時代最古の民間文庫として知られている金沢文庫(神奈川県)には、弘長3年(1263)「出羽国屋代庄八幡宮」で修業する能海、湛忍という二人の若い僧が、それぞれ仏書を書写して入庫したものが今でものこされており、安久津八幡宮の古さを物語っている。
境内には、鐘つき堂・流鏑馬的場跡などがあり、裏山一帯には、安久津古墳群十数基が点在する。

三重塔

置賜唯一の層塔「三重塔」

三重塔は、本来寺院伽藍がらんの一つだが、明治の神仏分離令によって、本社内の寺院が廃絶し、その後の火災などにより寺院が失われたため、三重塔のみが残った。
方三間、銅板葺(当初杮葺こけらぶき、後瓦葺)で、三鳥池の中島に建つ、置賜地方唯一の層塔。
三重塔は最初、寛永二年(1625)に米沢の鈴木十左衛門、高畠の鈴木平右衛門を施主として建てられましたが、寛政二年(1790)に烈風により倒れたため、寛政五年(1793)から伊達郡鳥取村山口右源次義高を棟梁として再建に着手し、同九年(1797)に完成したもの。
当時の祝宴の盛大さは、小郡山武田文書などからうかがい知ることができる。

本殿

本殿

舞楽殿

舞楽殿

阿弥陀堂跡に向かって東向きに建つ。
室町末期のものと思われる。
5月3日の春の例大祭では田植舞が 9月15日の秋の例大祭では延年が舞われる。
舞は、振鉾式ふりほこしき(燕舞式えんぶしき)、拝舞おがみまい三躰舞さんたいぶ太平楽たいへいらく眺望楽ちょうぼうらく蛇取舞へびとりまい姥舞うばまいの七曲が伝わる。
振鉾式と姥舞は舞師が、他の五曲を稚児(男児)が舞う稚児舞。
舞いは、舞師である大地権太夫家に、一子相伝の世襲制のもと四十四代にわたり代々受け継がれてきた。
かつては、奥州名取郡熊野社宮内熊野大社に舞師として招かれて、舞を指導していたという。

熊野大社

熊野大社は、大同元年( 806 年)平城天皇の勅命により再建されたと伝わる。
もとは「熊野山証誠寺」又は熊野大権現と云い、
その時代により熊野三所大権現・熊野山・熊野宮・熊野堂・おくまんさまとも称して、
比叡山直末の寺籍をもって天台仏教の霊場として発達した、置賜地方最古の社である。
その後も時の天皇、法皇の恩恵をうけて、のちに真言宗・羽黒修験・神道の三派も加わり、熊野修験の霊場としても栄えた。

「本殿」と、本殿の後ろ東側に建つ「二ノ宮」、二ノ宮の反対の西側に建つ「三ノ宮」
この三社を合わせて「熊野三所権現」という。
本殿は「一ノ宮」とも言い、
昔は一ノ宮、二ノ宮、三ノ宮と横に並んで建ち、いずれも相当の規模ではなかったかと言われる。

戸数三四九。人口一四五六人

邑鑑むらかがみ(慶長末年)

上記の資料から熊野大社がある宮内村は、置賜地方では米沢に次ぐ大きな集落であった。
僧侶・山伏が259人もいて、なんと総人口の20%を占めていた。
平安から鎌倉時代にかけては33院があり、
当時あった根本中堂は二十四間(約43m)平方と広大なものだったと伝わる。
室町時代には21坊があった。
その時代には、千人を優に超える多くの社僧がこの宮内にいたと想像できる。

神楽殿(かぐらでん)
拝殿と向かい合う神楽殿
拝殿

熊野は何度も火災に見舞われ、本宮末社坊中は炎上。
秘仏の三尊以外の神宝・縁起・祭式の道具装束は残らず消失してしまったが、他の平安から鎌倉時代からの貴重な宝物が数多く残っているという。
貴重な文化財は熊野考古館に展示されている。

創建について

創建については、勅命によるもの・慈覚大師開山説・源義家説・吉野川渓谷鉱山開発に関わる出雲民族説などがあるが、熊野大社では平城天皇の大同元年に勅命によって創建されたという伝承を採用している。
その外に「国分寺」であったということが口伝で残っているが
国分寺であったという史料はどこにもない。
[国分寺:聖武天皇の勅願により国家鎮護のため国ごとに建立された寺]

熊野大社の参道は郡山を向いている

上図の矢印は、熊野大社から続く参道の方向を指す。
矢印の向く先は、先述した郡衙地名の「郡山」である。
熊野大社の参道は
奈良平安時代の郡衙郡山を意識して南向きに作っているのだろうか。

大梵鐘

寛永3年(1626年)に寄進された大梵鐘
戦争での供出を免れている

寛永3年(1626)に、当時南陽市一帯の「北条郷」代官だった安部右馬助綱吉が寄進した。
「鐘の音を聞ければ人々の願いは叶えられ、三界の苦は消え、悟りに至る」 と願文が刻まれている。 これまで
 ・明治初期の廃仏毀釈
 ・戦時昭和17年(1942)の戦争への供出命令
この鐘を失う危機が2度あったが 文化財としての価値が認められて保存となった。
戦時供出は寸前での取りやめだったという。

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