巨石信仰・あまのじゃくの架け橋伝説~山形県天童市

歴史
岩峰の地面1.5m高さにある洞穴

山形県天童市の東山麓。
雨呼山山麓には、貞観二年(860)に慈覚大師円仁が開創と伝わる「山寺立石寺」と、和銅元年(708)に行基菩薩が開山したと伝わる「若松寺」がある。
この山寺と若松寺の寺院の間には、天邪鬼(あまのじゃく)が橋をかけようとしたという伝説が残る。

●二ツ岩(天童市干布地区石倉)
天龍山石倉不動尊へ向かう途中にある「正法寺川橋」から北東方向へ見える二つの岩山。
山寺開山慈覚大師(円仁)が二つの岩に立ち、大声で「アラヤー」と叫んで
巨石を村山平野へ投じ、その巨石が落ちたところを「荒谷」と呼ぶことになった。
天童市荒谷地区誕生のきっかけとなった場所である。
正法寺川橋から、北東の砂防ダム方向へ1.6km、+220m登った地点である。

石倉の正法寺川橋から見た二ツ岩

石が倒れないように、石の下に楔(くさび)石が挟まれている-東岩頂上

東岩の頂上。村山平野が一望だ。

東岩の洞穴。修行場として使用されたものか。

東岩直下の稜線上にある池。てっぺんに池とは不思議である。

龍伝説のある雨呼山だが、この二ツ岩にも「龍の前」という地名が残っており
二ツ岩にも龍伝説が関わっていることを思わせる。
[二ツ岩の正面(南斜面)が「龍の前」と呼ばれる]

西岩頂上から望む雨呼山。

西岩にある洞穴。石倉地区を向いている。

西岩洞穴内部。道具使用の加工痕がはっきりと確認できる。何かを祀っていたものだろう。

洞穴の大きさは縦横共に0.9m、奥行きは1.5mである。
底床部分が驚くほどに平らな事と、最奥部が四角に削られていること。
さらに、最奥部中央に観音彫りを思わせる将棋の駒の形のような、五角形が見え
まわりには苦労して掘ったであろう、道具の加工痕がはっきりと確認できる。

岩峰の地面1.5m高さにある洞穴

あとで触れるが、この洞穴は修験道の”行”を行う場であり、修験者の験を得る場であったと考えられる。

急峻な西岩全景

山岳信仰に磐座(いわくら)と呼ばれる信仰がある。
磐座は、天から神霊が宿ると信じられる”石” ”岩” ”木”などの事で、神の依り代として信仰されるものである。
奈良県桜井市に「三輪山」というきれいな円錐形の山がある。
三輪山は山自体がご神体で、山頂部には巨大な磐座(岩)があることで知られる。
古くから、円錐形の流麗な山は「神奈備山(かんなびやま)」と呼ばれ、神々が降臨する場所と考えられてきた。
この二ツ岩も、神奈備山として信仰されていたのではなかろうか。

荒谷地区から見た二ツ岩

●三ツ石(天童市干布地区奈良沢)
剣龍山奈良沢不動尊より、峰つだいに1.9km、+210m登ると、真東真西へ一直線に並んだ
「三ツ石」と呼ばれる巨石がある。
台座の上に巨石が一直線に3個見事に並んでいる。
巨石が倒れないようにと、石倉の「二ツ岩」同様に石の下には加工痕の残る楔石が挟まれているし、方位や大きさなども計算されているように感じられ、偶然の産物とでは説明がつかない。

見れば見るほど不思議な巨石である。

台座にのる三ツ石

台座にのる三ツ石

台座の上に一直線に並ぶ、巨石「三ツ石」

巨石が倒れないようにと、加工痕のある「楔(くさび)石」が挟まれる。

三ツ石は「真東と真西」に並び計算されている。

弘安元年(1276)、天童市成生地区にある成生城主「藤原頼直」は、一向上人を招き成生庄に時宗宝樹山仏向寺を建立しました。仏向寺には長さ三尺・肩幅一尺九寸・襟一寸一分の編み衣物で「縫い目なしの衣」があります。この衣はその折一向上人が、ジャガラモガラに住む龍姫からいただいたものとして、その物語が伝えられています。

一向上人が、成生城主藤原頼直の招きを受けて、東漸寺の近くまで来た時、
立ち込めていた朝もやが鈴の音のようにかき消されるようにさっと晴れて、
山上の雲が金色に輝きはじめたので、上人は立ち止まり日の出を拝みました。
そのうちにふと峰のあたりに三個の大石があるのを目にとどめられ、
折から草刈りに来た村人にその由来を聞きました。
それは、むかしこの辺りに天邪鬼(あまのじゃく)が住んでいて、
一夜のうちに北の若松観音から南の山寺の天狗岩(天華岩)まで峰づたいに長い橋をかけようとしました。
そこで、東漸寺の観音様は「頭の上に橋をかけられては困る」と申し入れましたが
聞き入れられなかったので、夜が明けては困る天邪鬼の仕事が、ちょうど橋げたまで進んだ時、朝を告げるニワトリの鳴き真似をして追い払ってしまいました。
その時の橋げたが「三ツ石」と、石倉にある「二ツ岩」であるということです。

このような伝承からわかるように、一向上人がきた時にはすでに「三ツ石」が存在していた。
そして、二ツ岩の慈覚大師が石を投じたいう「礫石(つぶていし)伝説」からわかるように、天台宗が関わっているのと、橋で山寺と若松寺が繋ごうとしていることから、この雨呼山一帯には山寺を中心とした「天台宗」が大きく関わりあっている事が推察できる。

実は、このような架け橋伝説は全国各地に残っている。
その伝説の元となる話が、修験道の祖と仰がれる役行者が、鬼神を駆使して大和の国の金峰山と、葛城山との間に橋をかけようとして失敗する逸話だ。

また、奥山寺の垂水不動尊・石倉の天龍山石倉不動尊・奈良沢の剣瀧山奈良沢不動尊・若松の倶利伽羅(くりから)不動尊・山口の高瀧山不動尊と、雨呼山を中心に五つの不動尊が存在する。
不動尊の不動明王は、今日まで「お不動さま」として、古くから多くの民から親しまれ、不動明王の”火”と、不動滝の”水”をつかさどる神として、私たちの身近な信仰の対象となってきた。
不動明王は”修行”との関りがとても深く、
特に「修験道」という古代から中世にかけて確率された山岳信仰と強力に結びつく。
天台宗と修験道。天台宗には回峰行など山々を縦走する荒行の山駆け修行があるが、
このような天台修験が、”石” ”岩” ”木”などを重んずる古代の修験道と一つとなり、
この雨呼山山麓一体に山岳修験として大きく展開していたことが推察される。

架け橋伝説位置図

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