● 貞観2年(860)の創建説は本当なのか⁉︎
立石寺は、貞観2年(860)に、清和天皇の勅願で、
僧円仁によって創建されたとしている。
しかし、この年の清和天皇の年齢は11歳である。
小学校5年生の子供の天皇であったのだ。
平安京にいる幼帝が、東北地方のこの地に、
寺を建てろなどと命令することが考えられるのか?
また、この年の僧円仁は68歳という、
当時としては超高齢であった。
しかも、唐から帰国し、比叡山天台宗の第3世座主という立場にあり、
朝廷との関わり合う業務で多忙を極めている状態である。
このような円仁が東北の地に来たとは考えにくい。
まして、4年後には比叡山で遷化している。
体力的にも東北行は考えにくいのである。
●なぜ貞観2年(860)なのか?
実は、創建を貞観二年とする寺社は、全国の至る所にある。
この年は、清和天皇の実の祖父で、藤原北家出身の藤原良房
が、摂政として国の運営の全権を掌握して、全国の寺社に対し、
修理保全をして、最勝王経を奉読し、国家安泰・鎮護国家の祈りを奉げるように命じている。
これが、貞観二年という年号が強く全国に残っている理由なのである。
● 立石寺の創建は本当はいつなのか?
三千院文書の慈覚大師伝によると、
僧円仁は、天長6年(829)に、大阪四天王寺で「法華経」の講義をしていたが、
朝廷の命によって講師をやめて「北狄に向う」と記録されている。
「北狄」とは、中華思想による北陸道の先にある出羽国という意味である。
その目的は、2年ほど前から出羽国で疾病が流行して多くの犠牲者がでているため、
その慰撫・救済をするというものであった。
そして、天長7年1月3日に、出羽国沖の日本海で、
東日本大震災のような規模の大地震が発生している。
雄物川の川底が破裂し、川から水がなくなった。
山と谷は所を変えた、という有様であった。
疾病の罹患者の慰撫・大震災の慰撫・救済の活動に、
円仁は、全精力を傾けたのであろう。
比叡山に戻った僧円仁は、疲労衰弱し、意識不明の状態になってしまう。
日本三大実録の記事によると、瓜を食べてようやく息を吹き返したことが記述してある。
山寺周辺には、奈良時代の715年、716年に、下野国の安蘇郷、
芳賀郷から国の政策として多くの人民が移民させられていた。
山寺は阿蘇郷、その近くの天童市周辺は、芳賀郷であった(『倭名類聚抄』)。
僧円仁は、下野国の安蘇郷芳賀郷の間にある都賀郡の出身である。
同郷の先人が居住する阿蘇郷に、慰撫・救済のために、
自ら信奉する薬師仏を本尊とする天台寺院を創建することは、
容易に想像することが出来る。
立石寺は、このような過程で、貞観2年(860)より30年早い
天長7年(830)に創建されたことが、
論理的に説明できるのである。
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